その日はいつもの日常だった。俺は当たり前に中学に登校して、平凡で退屈だが穏やかな生活を消化していた。何も気に留めるべきことなどないはずだった。
 俺はテストのケアレスミス点検の最後の仕上げとして答案用紙の名前欄に柏木直人ときちんと書きこんであるのを確認すると、大きく欠伸をしながら時計の針をちらりと見た。まだチャイムが鳴るまでは三十分もある。途中退室は許可されていない。俺は頭をかきながらシャーペンをコツコツと叩いた。周囲ではまだ一生懸命解答を記入する音があちこちから響いている。
 暇だ……眠気も襲うというものだ。俺は誘惑に負け、答案用紙を裏返すと机に腕を乗せてそのまま突っ伏して居眠りを開始しようとした。
 その途端、唐突に脳裏にきいんと何かが閃いた。テレビのノイズのような画面が頭の中に広がっていく。
 ……何だこれ?
 俺は弾かれたように慌てて起き上がり、危うく椅子をひっくり返しそうになった。盛大に響いた物音に、監督の教師はぎろりとこちらを睨み、俺は曖昧な笑いを浮かべて誤魔化す。
 眩暈のような感覚に頭を押さえ、考える。髪を三つ編みに束ねた幼い女の子が泣いている姿を、明瞭に見たのだった。真っ白な病室らしき部屋で、大きなテディベアの縫いぐるみを抱きしめて居たあの子は……一体、誰だったのだろう?
 その日はいつもの日常になる、はずだった。俺が信じていた平穏な日々は確かにその時まではあったのだ。

* * *


「ようこそ時の城へ」
 透き通った女性の声がしたと思うと周りが急にぱっと、明るくなった。俺は何故か、柱が何本もあり壁に抽象的な模様の彫刻がいくつもほどこされた、風変わりな建物の広間にいる。床には真っ赤な絨毯が敷かれ、側にある螺旋階段は長くとぐろを巻くように上へ上へと続き、遥か遠くにある天井に精巧なシャンデリアが煌々と青白い光を放っていた。
 声を発した者は俺のすぐ目の前にいた。胸のところに大きなリボンがある清楚な黒いドレスを着た銀髪の少女が、無表情にこちらを見つめている。焦点の定まらない、不気味なほど透き通った、丸い灰色の瞳。俺は背中にぞくりと、寒気が起こるのを感じた。少女は見定めるようにすっと目を細めた。
「ナオト様でございますね」
「君は誰だ? 俺はどうしてこんなところにいる?」
「私の名はクローディア……貴方がここに居るのは、ご主人様に招かれたからです」
 銀髪の少女は非常に無機質な声で、淡々とそう告げたのだった。俺は言葉を返すことができずに、その吸い込まれそうな澄み切った瞳を見つめていた。
 クローディアと名乗った少女は俺に向かって小さくお辞儀をすると、こう言った。
「では、ご主人様に呼ばれておりますので、私はこれで……また後ほどお伺い致します」
「!? お、おいちょっと待てよ、話を――」
 まだ詳しく聞いていない……というように続けようと思った言葉は、思わず途切れさせれられる。銀髪の少女がまるで魔法か何かのように、目の前から一瞬で消滅してしまったのだ。俺は茫然と前に差し出した右手の前に広がった虚空に見入っていた。

* * *


「ここ、どこ……? 何が起きたんだ?」
 唐突に、良く知った声が辺りに響く。驚いて振り向いてみると、中央に丸くかかったカーテンを囲うように置かれた白いベンチに人が何人かいた。俺から見て白いベンチの左寄りの部分に持たれかかっていたのは、カズキ――俺の弟であった。
「何だ、兄貴もいるの? 一体どうなってるんだ、これ」
 カズキは居心地が悪そうに顔をしかめながらお気に入りでいつも身につけている黒いキャップ帽を被り直し、周囲をぐるっと見回した。
 白いベンチには、他に一人の少年と二人の少女が座っていた。その三人の中にはナオトが知る人間は一人もいなかった。
「ちょっとお、完全に圏外じゃない!」
 一人の少女が大声で不満を言った。彼女は軽くパーマのかかったセミロングの茶髪で真珠のピアスをしており、Tシャツにショートパンツという装いをしている。その手には、ビーズでこてこてにデコレートされた白い機体のスマートフォンが握られていた。
「何なのこれ? てか、貴方達何者?」
 少女は隣にいる眼鏡をかけた、黒いジャケットにジーンズという格好の少年に尋ねた。少年はポケットの懐中時計を確認しながら抑揚のない調子で答えた。
「多分みんな同じ状況だと思うよ……何一つ分からないのさ。だって目が覚めたらこんなファンタジー世界に出て来そうな謎の広間にいるんだから」
「そんなのってありなの? ねえ貴方も何とか言ってよ!」
 ピアスの少女は隣にいた、長い髪にマーガレットの模様のヘアバンドをした真っ白いワンピースの少女に声をかけた。ヘアバンドの少女は少し困ったように、ピアスの少女がいるのと多少ずれた角度の方を見渡した。
「え、ど、どうしたの……?」
 ピアスの少女は驚いて聞きかけたが、数秒遅れて気がついたようにはっとして、質問をぶつけた。
「もしかして目が見えないの?」
 ヘアバンドの少女は目が合わせられないながらもようやくピアスの少女の方向へ顔を向けると、ゆっくり頷いた。
 眼鏡の少年は、ヘアバンドの少女の手を握ると、庇うように前に出て言った。
「彼女のことは僕に任せておいてくれないか。知り合いなんだ」
 ヘアバンドの少女は無言のままだったがどこかほっとした様子で、少年の手を握り返したのだった。
「ええと、結局どうしたら良いのかしらね? あたし達」
 ピアスの少女は絡み辛くなったのか、今度は俺の方に向かって言った。八つ当たりなのか、どことなく刺々しい口調だった。俺は肩をすくめた。
「どうするも何も。取りあえずまあ、それぞれ自己紹介でもするか?」

* * *


 自己紹介などと言ったのは半ば冗談のつもりでもあったが、このような不気味な状況でまず居合わせた者について確認しておくというのは至極真っ当な考えである。皆の賛同を得てまずは互いに情報交換することとなった。
 この謎の場所に居合わせた五人は、それぞれ俺とカズキが兄弟として、眼鏡の少年とヘアバンドの少女が友人として面識があり、それ以外は全くないということが確認された。しかし五人とも東京都形須市に住み私立形須中学に通っている。
 符合する共通項をどう解釈すべきなのかは分からないが、取りあえず今は気に留めておくだけにしよう。
「ねえ、何でこんなややこしいことになっちゃったのかしら……今日見たいテレビがあったのに……」
 ピアスの少女は電話もメールもアプリの通信も繋がらなくなったスマホを無気力げに見つめいた。彼女の名前はナツメ。学年は二年……ということは俺とは同級生と言うことになる。彼女の名前を聞いて、俺はそう言えばこんな奴いたかもしれないとおぼろげながら思いだした。確か五組の生徒だ。抜き打ちの頭髪検査で教師と言い合っているところを見かけたことがある。俺は一組で教室がかなり遠いし、交友範囲も随分違うようなので、こんな機会でもなければ知り合うことはなかっただろう。
 眼鏡の少年はさっきからヘアバンドの少女と小声で何か話し合っていた。眼鏡の少年の名前はトオル。ヘアバンドの少女の名前はヒカリ。学年は二人とも三年。同じクラスで、様子を見ていると普段から仲が良いようだ。
「あのさあ、ここでじっとしてても仕方なくないか? あの扉外に通じてそうな気がするんだけど、出てみようぜ」
 途方に暮れていたところで、そう提案したのはカズキだった。
 身内なので整理するまでもないが、奴は一年だ。この中では一番年下の癖に、どうやらあまり遠慮する気はない様子。
 カズキは左手はズボンのポケットに突っ込んだまま、右手で手前の方を示していた。全員がそちらを向いて、しばらく考え込んでいるような間が空いた。そこにはシンメトリーの模様で飾られた、木でできた大きな古めかしい扉があった。
「いや、下手に動かない方が良い。もう少し様子を見てみよう」
 トオルは冷静に反対した。俺も頷いた。何も分からないままで迂闊に行動して良い状況ではない。こんなまるでゲームか何かのような展開では、扉を開けた瞬間モンスターが出てきて俺達を食い殺したとしても、全然驚くことはできないだろう。
「ずっと意味のない会議を延々とやってるつもり? 馬鹿馬鹿しい」
 カズキはむっと顔を顰めて言った。トオルは手で制して諭すように説得する。
「話ぐらい落ち着いてしようじゃないか。仲間割れしてる場合じゃないんだ」
「じゃあ俺だけでも行ってくる」
 カズキはこちらのことなどお構いなしにスタンドプレイで行動する気満々で、既に扉の方へ足を運びかけていた。俺は見かねて手で遮った。
「止めとけ」
 俺は短く制止し、目で強く訴えかけた。カズキは軽く舌打ちすると帽子を目深に被り直し元の白いベンチにどっかりと座った。
「年上ぶってさ、兄貴はいつもそうなんだ、協調性協調性って真面目腐っちゃって」
 俺はカズキの悪態は全く無視したが、内心鬱陶しくなってきた。このどうしようもない状況で気の短い弟の暴走をいちいち止めねばならぬのは間違いなく兄であるこの俺だろう……嗚呼、憂鬱だ。
 そうしているうちに、打ちひしがれるように頭を垂れていたナツメが急にがばっと起き上がり聞き耳を立てるように手を耳元に当てて言った。
「何か聞こえない? 何か……音楽みたい」
 注意を払ってみると、ナツメの言うとおりだった。どこからかオーケストラらしき重厚な音楽が聞こえてくる……クラシックのようだ。明るくて愉快そうな雰囲気の曲だった。最初は微かな音だったが、どんどん大きくなっていき、今や観賞に申し分ない音量になっていた。
「何て曲だろ、これ。聞いたことはある」
 俺は右手横にある螺旋階段をぼんやり眺めた。どうやら、上の階から聞こえてくるようなのだ。
「チャイコフスキーの、クルミ割り人形」
 気弱そうな声がおそるおそるという調子で言った。俺は声の主の方に目を向けた。ヒカリだった。
「詳しいのか?」
 俺がヒカリに声をかけると、ヒカリはびっくりしたように身体を震わせて、きょろきょろと辺りを見回した。
「悪い、驚かせたみたいだな」
 ヒカリは弱々しく首を振った。それで先程の質問に答えた。
「詳しいってほどじゃないけど、結構好きなの」
 全員が音楽に気を取られていた中。突然、三人が最初に座っていた白いベンチの内側にあるカーテンが開き始め、そこにかっと光が差した。
「な、何だ……?」
 一番近くにいたカズキが警戒してさっとベンチから離れた。俺達は酷く緊張しながら、何が起こるのかを黙して見守った。

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