「お、おい……」
 俺は急に床にへたり込んだナツメを案じて背を叩いた。ナツメはしばらく魂が抜けたようにぼんやり下を向いていたが、視界に俺を捉えると、すぐに顔に血の気が戻ってくる。
 途端、ぱしん、と小気味いい音が響いた。頬にちりと痺れるような痛みが走る。一体何を思ったのか、ナツメが俺にビンタを食らわせたのだった。
「痛え、何すんだよ!」
 ナツメは盛大に俺の頬に打ちつけた自分の手のひらを不思議そうにまじまじと見ていた。それからまるで意外なことを発見したという調子で呟く。
「別にこれ全部夢ってわけじゃないのね……」
「そんな理由かよ! もう夢とか現実とかそういう次元じゃないだろこれって」
 ナツメは俺の抗議に注意を払う様子は全くなく、猫のような大きな瞳をわずかに揺らした。そうしてさっきから置き去りにされていた、いかにも肝心なことを問いかけてきた。
「あたしら、さっきの化け物に殺されたんじゃなかったの?」
 俺は唇を引き締める。あまり思い出したい情景ではないが、確かにどういうことなのか分からなかった。俺達は化け物に捕えられそうになった後、いつの間にか城の一階の舞台の前に戻って来ていたのだった。
「化け物って、どうしたんだい? 何かあったの」
 トオルが尋ねてきた。俺は手短かにさっき起きたことを説明する。
「ふうん……奇妙なことだな。僕はずっとサーカスを見ていたから、景色が変わったのも演出の一部として気に留めなかったんだけど」
 トオルは興味深げに言いながら、懐中時計を取り出して時刻を見た。
「そういや、今何時なんだ?」
「十二時……それがさ、さっきから全く時刻変わらないんだよね」
「まじかよ」
 俺はシックなデザインの文字盤を覗き込んだ。確かに長針も短針も完全に静止している。
「電池切れとかってことはないのか?」
「ないよ、こないだ変えたばっかりだったんだから」
 トオルはため息をつきながら、懐中時計を懐に閉まった。
「上には何があるんだろうな。ろくな予感がしないぜ」
 カズキは左手をポケットに突っ込み、右手でさっきの硬球を軽く投げあげたりしながら、遥か上に向かって伸びていく螺旋階段を睨んでいた。
「あ、あたしもうやだ、帰りたい……」
 ナツメは表情に疲労を濃くして、率直な弱音を吐いた。気持ちは痛いほど分かるが、しかしどうしようもない。
「最上階か……ヒカリはさすがに一旦ここに残った方が良いんじゃないか」
 俺がそう提案すると、ヒカリはさっと表情を陰らせ懇願した。
「何か危険なことになったら、みんな私のことは見捨てて逃げて良いわ……足手まといにならないようにするから、できれば置いて行かないで」
「トオルと一緒でも残りたくないか?」
「ごめんなさい……」
 ヒカリは済まなそうに俯いている。俺は肩をすくめた。
「悪い、危ないんじゃないかと思ってさ、そんなに嫌なら俺の言ったことは気にしないでくれ」
 まあトオルもいるし、何とかなるだろう。多分……
 螺旋階段はその登り口を俺達のすぐ側に開いている。上の階に今すぐでも行ける状態だった。
 この先に一体何が待ち受けているのだろう。不安はあるが、どうやら先に進む外ないようだ。
「まあ、ぼけっと突っ立っててもしょうがないよな、行くか」
 俺は階段の前に立つと、一歩ずつゆっくりと登り始める。木でできた段が、ぎいと不快な音を立てた。

* * *


 階段を上がっていくと、再びクラシックの曲が奏でられる始める。
 さっきから場面が変わる度に合わせて響いてくるこの音楽は、どうも上の階から聞こえてくるようだった。
「アルビノーニの、アダージョ……」
 ヒカリは独り言のように言うと、わずかに眉を寄せた。
「私、この曲は嫌い……こんな時に流さなくても……」
 長い階段を登り切ると、薄暗い渡り廊下が俺達を出迎えた。廊下の天井に間隔を置いてぽつぽつと灯るランプが怪しく青白い光を放っている。廊下の両壁際には等間隔で扉が設置してあり、中央には立派な白い本棚がある。どこか宿泊施設のような趣があった。
 前に進もうとすると、階段のすぐ手前の壁に何か書かれた古紙が貼ってあることに気がつく。その内容は……
 ――怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
「ニーチェの格言だっけ。 うろ覚えだけど」
 トオルが警戒しながらまっすぐ続いて行く廊下の向こうを見つめた。遠くに上に登る螺旋階段の入口が見える。廊下はしんとしていた。動いているのは、ランプに灯る微かな炎のみ。
「取りあえず、上へ上へって登って行けばいいんだろ? さっさと行くぞ」
 カズキは他の四人を先だって、廊下に敷かれている茶色い布地の絨毯の上をどんどん歩いて行った。
「待てよカズキ、何か罠があるかも……」
 俺は思わず呼び止める。カズキは面倒そうに振り返った。
「俺達って一応ここではお客様なんだろ? 主がどういう奴か知らないが、早々そんな酷い目に合わされやしないだろ。それより急ぐぜ。主とやらに抗議しないと、こんな気味悪い城に閉じ込められたこと」
 カズキはそう言ったが、俺は何か胸の内にもやもやしたものを感じた。城の主が悪い奴ではないなら、俺がさっきサーカスで出会ったあの黒い怪物はどう説明すれば良いのだろうか。
 カズキは気に止めずにどんどん次の階段に向かって歩いて行く。あっという間に廊下も半ばの、白い本棚の前辺りまで来た。
 その時、異変が起こった。カズキはあっと声を上げた。床から突然黒いものがぬるりと持ち上がって現れた――紛れもなく、サーカスの入口のところで覗いていた、あの怪物だった。
 黒い「何か」は白く煌めく瞳で、カズキを見つめる。そしてこの間のように、素早く半ば液状の腕でカズキに向かった。カズキは一瞬で黒い「何か」の体内へと、飲み込まれてしまった。
「うわああああああ!」
 カズキの断末魔の叫びが、鋭く響き渡った。この世のものとも思えないような恐ろしい振動となって狭い廊下にこだまする。
 カズキは黒いゼリー状のものの中で、腕に耳に腹に……その身体のあちこちを一刻一刻と引きちぎられていき、終いには内臓がぐちゃぐちゃになり、骨まで砕かれていった。
 カズキは一瞬で、ただの化け物の体内に広がる無数の肉片になっていく。見るも無残な光景だった。黒い「何か」は人間一人を丸ごと飲み込んだためにその体積をまし、ますます白い瞳からちかちかするような光を発する。
 俺はほとんど反射的に目を逸らした。急激に吐き気に襲われてふらふらとよろめき、壁に手をついた。景色が歪みに歪んで、自分がどこにいるかも分からなくなっていた。
 その間、数秒しかかからなかった。俺達は再びいつの間にか、城の一階の広間に戻って来てしまっていた。
 誰かが白いベンチから急に立ち上がった。カズキであった。みんなの驚きの視線が彼に集まる。
「何だったんだあれは! 急に出て来やがって、すげーびびったぞ。ていうか何が起きた? ここ一階か?」
 完全に元の姿に戻ったカズキが、やれやれとキャップの上から頭をかき、早口で捲くし立てた。俺はそんなカズキを穴が空くほど見つめた。開きかけた唇から、何も言葉が出て来ない。空いた口が塞がらないというのはこういうことを言うのだろうか。
「どうしたんだ兄貴、真っ青だぞ……」
 カズキの方が、俺の反応に驚いているようだった。俺はすぐに理解した。彼はきっとあの悲惨な捕食のような事件の一端を覚えていないのだ……おそらく俺がサーカスであの黒い「何か」に出会った時と同じように。
 しばらく全員が押し黙っていた。音楽は止み、薄気味悪い城は沈黙を守っている。かち、かち、とどこからか時を刻む音が聞こえてきた。トオルの時計は止まっていたが、この城には普通に動いている時計があるのか……
 果たしてこの城にも、時間と言う概念があるのだろうか。俺はふと思いついて疑問に思う。もしもここが夢の中の世界のようなものなら、あるともないとも言えるのかもしれない。いや、そもそもそんなことはどうでも良いのだろうか。
 時間がどうであろうと、俺達がこの城から出られないでいるという現実は変わらないのだ。
「どうする?」
 最初に口を開いたのはトオルだった。彼はあの壮絶な出来事があった後で、割合冷静な態度を保っている。ずっとトオルの手を離さずに彼について来ているヒカリも同じだった。彼女が平気そうなのは、目が見えないのでそのためというのも大きいだろうが。
「どうするも何も……行くしかないんだろ……」
 俺は萎えた気力を無理やり取り戻そうとしながら言った。その横で、誰かが崩れ落ちるように地面に倒れ込んだ。
「ナツメ!」
 俺が名前を呼ぶと、ナツメはむくりと起き上がった。虚ろな瞳が俺を捉えると、見る見るうちに潤んでゆく。
「家に帰りたい……帰らせて……」
 ナツメは頬に涙を伝わせて、さめざめと泣いていた。始めの頃の強気な態度は、もう影も形もない。俺はさっきまで散々印象の悪かったこの少女に、少しだけ同情する気持ちになってきた。
 ついさっきまで普通の中学生活を送っていた人間が、突然こんなことに巻き込まれて正気を保っている方が無理という話だ。強がってはいても内心ずっと心細かったに違いない。
「分かってんだろ、家に帰してもらうために上に向かうんだ。取りあえず落ち着こう。もしかしたら何か良い策が思いつくかもしれないし……」
 俺は元気づけるようにナツメの背をとんと叩いた。ナツメは力なく首を横に振っている。しゃくりあげると、また嫌がるように何度も首を振った。ナツメの焦げ茶色の髪が揺れて、白い真珠のピアスが瞬くような輝きを帯びた。
 俺はため息をつくと、相変わらず無表情でいるトオルに呼びかけた。
「トオル、ここで少し休んでから次のことを考えないか……もうこの城に来てからも結構経つし、みんなも疲れて来てるんじゃないかって思うんだ」
「確かに、その方が良いかもね……あんな化け物がいるとなったら、無暗に進むわけにはいかないし」
 トオルも俺の意見に難なく同意してくれた。俺はほっと胸をなで下ろした。実は俺が一番休みたかったのかもしれない……などと思い当って、自分でも驚いた。疲労というものはいつもいつの間にか蓄積してしまっていて、ちょっと気が緩んだ時に突然気がつかされる。
「化けもんめ、次出会ったらただじゃ済まないぞ、俺の手でぼこぼこに打ちのめしてやる……」
 カズキがさっきの硬球を取り出して、ぐっと握りしめながら呟いた。その瞳には静かな闘志が宿っている。
 俺はそんなカズキを横目で見て、すぐに目を逸らした。「頼むから、無茶やらかさないでくれよ」と祈るような思いを、わざわざ口にすることもなく。

←Back Next→











inserted by FC2 system